南極おろし

漁があるかぎり、マグロ漁船はどんなに海がシケようと休むことはない。「オチナギ」といってマグロはシケのときによくかかる。だからついつい無理をして海難事故も絶えない。船員たちはスタンバイのベルでたたき起こされるとハウスのベッドから丸いポールト(船窓)に目を凝らす。鉛色の空と、白く泡立った水平線と、透明な海中が交互に映しだす。オオトリという真っ白な海鳥が海面から吹き上げられる海水で息ができないのか背泳ぎのように顔を上空に向けて飛んでいる。
「よう、吹きよるな」これがマグロ船の朝の挨拶。長袖シャツにドンゴロスという防寒用の分厚いトックリの上にゴム合羽を着る。毛糸の靴下を二枚重ね、炊事用のゴム手袋をしてその上に軍手をはめる。それでも寒さで手はかじかみ、ドラム缶で沸かした湯の中に手を突っ込みながら漁を続ける。夜になるとさらに冷え込んで、甲板をミゾレが叩きつける。
波の高さ10m。最大瞬間風速40m近い暴風に、釣り針がついた枝縄が風に舞う。海が荒れ、もうこれ以上操業するのは危険だと判断すると、延縄を切り離して操業を一旦中止する。襲いかかる波に向かって微速で前進し、船を「支える」。怖いのは、波を横から受けて魚層に積み上げたマグロが荷崩れをおこすこと。傾いた船体がさらに波に襲われれば、ひとたまりもなく転覆する。
骨のないものほど怖いものはない。と海の男たちはいう。風、波、潮。150キロの幹縄にぶるさげた3000本の枝縄が全部もつれてからみつく。自然の驚異の前に人間はなすすべもなく、ただ甲板を埋め尽くした縄のもつれの山を眺めるだけ。18時間におよぶ揚げ縄がやっと終っても風呂に入って寝るわけにはいかない。このもつれた縄を一本、一本、さばかなくてはならない。そんなこと絶対無理だ!と思う。でも、仕掛けを元通りにしなければ明日、操業できない。嵐の中、寒さと睡魔と闘いながら、乗組員全員でもつれをさばいていく。あきらめずに必死で手を動かしていると、いつの間にかあの絡み合った縄の山が全部解けている。夜が明け、荒れ狂っていた海が凪いでいる。水平線から昇る朝日を全身に浴び、仲間たちの顔は吹きだした塩で白い。
あの朝日の美しさと温かさは今でも忘れない。
 (2006年 10月16日)
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